STORY
上田浩之 の軌跡
一人の整備士が、インドネシアと出会い、JAPANNESIAを創るまでの物語。
From Indonesia to JAPANNESIA
自動車整備士としてインドネシアに渡った一人の日本人が、信頼の架け橋を築くまでの記録。
3分でわかる、上田浩之という人物
自動車整備士としてJICAでインドネシアへ。初めての海外、半年間の現地研修。
バンタエンの職業訓練校に着任。荒れた学校を、生徒全員のトヨタ就職へ導く。
全国48名の指導者育成へ。そして「恩送り」を理念に JAPANNESIA を創業。
STORY
一人の整備士が、インドネシアと出会い、JAPANNESIAを創るまでの物語。
20代、借金を抱えた下積みと、数ヶ月に及ぶ無給の修行。どん底から「サービスを極めよ」という一言で自動車整備の道へ。
夜の8時を過ぎると、その町は嘘のように静まり返った。
昼間あれほど騒がしかったバイクの群れも、物売りの声も、いつのまにか消えている。聞こえてくるのは、自分の指がキーボードを叩く「カツカツ」という音だけ。インドネシアの片隅にあるこの小さな部屋で、私はひとり、これまでの人生を巻き戻していた。
誇れる過去ではない。むしろ、思い出すたびに頬が熱くなるような、回り道だらけの20代だった。順風満帆な成功譚など、私には何ひとつない。あるのは、転んで、また転んで、それでも性懲りもなく立ち上がってきた、不格好な記録だけだ。
それでも今夜は、逃げずに振り返ってみようと思った。この静けさのなかでなら、かっこ悪い自分とも、ちゃんと向き合える気がしたから。
おかしな男だと、自分でも思う。
会社に入って少し時間に余裕ができたころ、私は『金持ち父さん、貧乏父さん』を読んでいた。そのなかの「お金とは、本当はないものだ」という一文が、なぜか頭から離れなくなった。ふつうの人なら、へえ、で終わる話だ。でも私の中の好奇心は、そういうときだけ、手がつけられないほど暴れ出す。一度火がつくと、確かめずにはいられなくなる。
お金をもらわずに働いたら、いったい何が得られるんだろう。
理屈ではなかった。ただ、自分の体で確かめてみたかった。気づけば私は、近所の日本料理店の扉を押していた。
「お金なしで働いたら、なにを得る事ができるのかを知りたいんです」
店長はぽかんとしていた。それはそうだろう。給料はいらない、でも料理人になりたいわけでもない、ただ「知りたい」だけの男が、目の前にいるのだから。怪しまれても、笑われても仕方がないと思っていた。けれど店長は、しばらく私の顔をじっと見たあと、こう言った。
「そんなやつは初めてだ。明日から来てくれ」
その一言が、妙に嬉しかった。
翌日から、仕事終わりに毎晩23時まで、無給の日々が始まった。皿を洗い、野菜を刻み、店じまいを手伝う。体はくたくただった。それでも最初のうちは、何か特別なものが得られるはずだと信じていた。お金には代えられない経験が、きっと自分を変えてくれる——と。
ところが、1ヶ月、2ヶ月と続けても、劇的な何かは訪れない。ただ体だけが疲れていく。約4ヶ月後。疲れ果てた私の胸に残った答えは、笑ってしまうほど身も蓋もないものだった。
自分の時間が、欲しい。
それだけだった。拍子抜けするほど平凡な結論だ。けれど、本で読んだ知識ではなく、自分の手と足で確かめたからこそ得られた、まぎれもない実感でもあった。あのころの私は、そうやって遠回りをしないと、何ひとつ腹に落とせない人間だったのだと思う。
そして、好奇心は、これだけでは止まってくれなかった。
20代前半。やりたいことが見つからず、私はずっともがいていた。何者かになりたいのに、何者でもない。その焦りに耐えきれず、私はふたつのことを自分に課した。「誘いは断らない」「興味があることは全部する」。今思えば若さゆえの空回りだが、当時の私には、それしか前に進む方法がわからなかった。
知人が「マッサージ店をやる」と言えば、私はタイ式マッサージを学ぶためだけに、本当にタイへ飛び、一週間、現地の学校に通った。——そして、いざ手伝ってみたら、施術が少しも面白くなくて、あっさりやめた。我ながら、なんと身勝手で、なんと遠回りな男だろう。
こうして、興味のおもむくまま、片っ端から手を出した。その代償は、やがて容赦のない数字になって返ってきた。
気づけば、借金は300万円。クレジットカードは8枚。一枚の支払いを別のカードで埋め、その穴を、また別のカードで埋める。年利12%の利息に追われ、返しても返しても、元金は1円も減らない。明細を開くのが怖くて、封筒すら開けられなくなった。私は、自分で掘った穴の底で、ようやく本当に青ざめた。誰のせいでもない。全部、自分でやったことだった。
「さすがに、これはやばい」
ローン地獄の底で、私はやっと目を覚ました。すべての借金を地方銀行一本にまとめ、利息を抑えて、コツコツ返す段取りをつける。気が遠くなるような返済計画だった。止められなかった好奇心の代償は、あまりにも大きすぎた。
けれど不思議と、後悔だけではなかった。底まで落ちたからこそ、見えたものがある。もう、ふらふらと寄り道をしている場合じゃない。全部断ち切ろう。今度こそ、ひとつのことに本気で打ち込もう——そう腹をくくれたのは、皮肉にも、どん底まで落ちたからだった。
そんなとき、私は自分の人生を決定づける一言と出会う。
整備士として働きながら、私はずっと営業の仕事に強く惹かれていた。スーツを着て、お客様と話して、契約をまとめる——そんな華やかな世界が、まぶしく見えた。意を決して、当時いちばん尊敬していた上司に、直談判した。「営業になりたいんです」。胸を張って、自信満々に言ったつもりだった。
返ってきたのは、予想もしない言葉だった。
「営業はいつでもなろうと思えばなれる。サービスをまずは極めなさい」
正直に言えば、その場では納得しきれなかった。せっかく勇気を出して伝えたのに、はぐらかされたような気さえした。それでもなお営業になりたいと、頑固に押し通すこともできた。
けれど、ひと晩考えて、私は思い直した。自分のたった20年そこそこの経験で判断するより、たくさんの修羅場をくぐってきたこの上司の言葉を信じるほうが、どう考えても賢い。小さなプライドを飲み込んで、私は答えた。「それでは、サービスを極めます」。
まさにお言葉と、その時の判断が、私の人生のターニングポイントだった。
あのとき、つまらない意地に固執していたら、いまの私は間違いなくいない。
極めるとは、まず自動車整備の1級をとること。私は毎朝4時半に起きて、勉強した。眠い。きつい。布団から出る、その一歩が、毎朝の小さな戦いだった。それでも、生まれて初めて「逃げずにやり遂げたい」と心から思える目標だった。誰に強制されたわけでもない。自分で選んだ道だからこそ、続けられた。半年後、私は1級の資格を手にする。
そしてその一枚の資格が、思いもよらない扉を開けた。「インドネシアに技術指導に行ってみないか」——条件は、1級を持っていること。あの暗いうちから机に向かった日々が、まさかこんな形で報われるとは。こうして私は、生まれて初めて、インドネシアの地を踏むことになる。
20代の終わり、私はひとつの目標を立てた。
「ただの整備士から、世界で活躍できる人間になる」
口にするのも気恥ずかしい、身の丈に合わない目標だった。けれど、本気だった。
回り道だらけの、アホみたいな20代だった。誰にも誇れない失敗ばかりだった。けれど——底まで落ちた夜にひとり震えた経験も、無給で働いた4ヶ月も、消えない借金の重さも、布団と格闘したあの毎朝も。いまの私は、こう信じている。
それは今までの、アホみたいな経験がきっとどこかで上手い事、歯車の一つになって噛み合っているのだと思います。いやきっとそうに違いない
無駄な経験など、ひとつもなかった。挫折と、再起。どん底のあの夜があったからこそ、私はいま、ここに立っている。私の本当の物語は、ここから始まる。
母のガンを押して旅立った、初めての海外。マカッサルでの半年間が「人生の基盤」になった。
人生で初めての海外は、喜びではなく、罪悪感とともに始まった。
愛媛のトヨタ販売店から、半年間インドネシアへ。願ってもないチャンスだった。あの「サービスを極めよ」という言葉から積み上げてきたものが、ようやく形になりかけていた。けれど、その話が決まりかけた、ちょうどそのとき——母に、ガンが見つかった。
頭が真っ白になった。治療には長くかかるという。母がいちばん心細いときに、息子の自分が、地球の裏側へ行ってしまっていいのか。行ったこともない国への期待と、母を置いていく後ろめたさが、毎晩のように私の胸でせめぎ合った。布団に入っても、天井ばかり見つめていた。
インドネシアに行く前に、母がガンである事が分かり、治療に長く時間がかかる事や、始めて所なので、不安が沢山ある事など、色々と悩んだ。
何日経っても、答えは出なかった。最後に、私は母に打ち明けた。決めてくれ、と。本当は、すがる気持ちだったのかもしれない。母の答えは、私のずるさを、まるごと包んでくれるものだった。
母に相談をすると、私は大丈夫だから、行っておいでと、後押ししてくれたので、行く事を決心した。
「私は大丈夫だから」——病気の母が、息子の夢のために口にした、その言葉の重さを、私は一生忘れない。自分のことより、私のことを案じてくれる。その背中を押す手の温かさを胸に刻んで、私はスラウェシ島・マカッサルの地を踏んだ。この恩には、必ず元気な姿で報いる。そう誓っていた。
だが、待っていたのは、自分の無力さを、毎日のように突きつけられる日々だった。
トヨタ検定1級を持つエンジニアとして、現地の期待は大きかった。これまで誰も直せなかった車のトラブルが、次々と私のもとへ回ってくる。けれど、修理書はインドネシア語と英語。読むだけで時間がかかる。何より——伝えたいことが、まるで伝わらない。
マカッサルに来てすぐの頃は言葉が全く通じなくて本当に苦労した。一生懸命伝えようと身振り手振りをする程、笑われる。
日本では「できる整備士」で通っていた自分が、ここでは、言葉ひとつ満足に話せない、笑われるだけの存在だった。積み上げてきたはずのプライドは、あっけなく崩れた。夜になると、なぜ自分はこんな遠い場所にいるのだろうと、母の顔ばかりが浮かんだ。
それでも、その悔しさが、私にひとつの真実を教えてくれた。
言葉が通じない国になると、ほとんど伝わらない。だから、行動で示すしかないのだ。行動で示す事の大切さも学んだ。
言葉で逃げられないなら、行動で示すしかない。私は毎日2時間、インドネシア語を勉強すると決めた。地味で、終わりの見えない努力だった。単語帳を握りしめ、通じなくても、笑われても、片言で話しかけ続けた。すると、ほんの少しずつ、現地の人と心が通い始めた。
この国は、宗教も、暮らしも、何もかもが違った。1日5回の祈り。断食の時期には、私自身も水ひとつ口にできない空腹と渇きを味わった。乗り合いの「ペテペテ」に揺られ、人力車の「ベチャ」で市場へ向かう。何もかもが新鮮で、戸惑いの連続だった。それでも私は、子どものころから抱いていた「海外で生活する」という夢が、いま叶っているのだと実感していた。
そんな日々の中で、私はもう一度、「なぜ自分はこの仕事をしているのか」を、思い出すことになる。
ある日、「エンジンがかからない」という客のもとへ、同僚のムルシッドと駆けつけた。原因は、リモコンキーの電池切れ。たったそれだけのことのために、片道20分かけて、特殊な電池を買いに走った。戻って交換すると、エンジンは何事もなかったように息を吹き返した。客は、まるで奇跡でも見たように喜んでくれた。それを見て、言葉も通じないこの国で、私の胸に久しぶりに、温かいものが灯った。
色んな職業がある中、エンジニアを選択した理由は、車を修理する事により、ありがとうって、感謝してもらえる仕事であるから、私はエンジニアを選んだ。
国が変わっても、言葉が通じなくても、「ありがとう」の重さは、まったく同じだった。どんなに環境が変わっても、これだけはぶれない。それが、私の心の軸なのだと、異国の地で改めて思い知った。
心の軸がないと、日々変化する周りの環境や、自分の環境の変化に、耐えられなくなってしまう。
軸さえあれば、人はどこででも立っていられる。マカッサルの毎日が、それを私に教えてくれた。
そして、この半年で、私は思いがけないものを手に入れた。「家族」だ。
隣の部屋に住む一家は、言葉も話せない私を、実の身内のように迎えてくれた。毎日のように一緒に夕食を囲み、休みの日には小さな旅にも連れていってくれた。子どもたちは私を「お兄さん」、なぜか「おちゃん」と呼んで、後ろをついて回った。ひとりぼっちで心細かったマカッサルの夜は、いつのまにか、笑い声であふれる夜に変わっていた。
この約6ヶ月間は、本当に沢山の経験をさせて頂いた。6ヶ月前には、ここまでたくさんの友達や家族が出来ると思わなかった。
別れの日が来た。各店舗を挨拶して回ると、スタッフたちが、仕事の手を止めて集まってくれる。熱い握手を交わすたびに、ありがとうと言おうとするたびに、声が詰まった。たった半年。それなのに、こんなにも離れがたい。胸が締めつけられた。
6月から11月までの約6ヶ月間は自分にとっての宝物になった。これからの人生の基盤になると思う。
不安と罪悪感だらけで始まった半年が、気づけば、私の人生の土台になっていた。そして帰国の途につきながら、私の胸には、ずっと、もうひとつの強い願いがあった。母のことだ。
日本に帰って、一番に家族に元気な姿を見せたいと思う。そして、母の作ったお味噌汁を食べたいと思う。
「行っておいで」と送り出してくれた母に、まず元気な顔を見せたい。あの温かい一杯の味噌汁を、もう一度。その思いだけを胸に、私は飛行機に乗り込んだ。
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渡航前に母のガンが判明し悩むが「私は大丈夫だから行っておいで」と背中を押され決心。半年のハジカラトヨタ研修を終え、言葉も通じない苦労の中で得た経験と現地の家族を「人生の基盤」と振り返る。
同僚エンジニア・ムルシッドが休日でも客の元へ出向き故障を解決する姿を描写。整備士を選んだ理由は「ありがとうと感謝される仕事」だからという、上田氏の職業観の原点「心の軸」を語る。
海外生活という夢を叶えた初インドネシア任務での原体験。言葉が通じず行動で示す難しさを学び、「夢は一人では叶わない、多くの人の協力で叶う」という感謝と挑戦の人生観を語る。
初任務6ヶ月の終わりにマカッサルを去る別れの記録。各店舗のスタッフや家族同然の隣人との別れに涙し、愛媛のトヨタ販売店への感謝と「この経験を後輩に伝えたい」との思いを綴る。
4年後、JICAの専門家として再びインドネシアへ。荒れた職業訓練校を、毎朝5分の清掃から変えていく。
4年の歳月が流れて、私はふたたび、インドネシアの地に立っていた。
胸の中にあったのは、高揚と、それを上回る重圧だった。今度は、半年の技術指導員ではない。JICAの長期専門家として、2年間。バンタエン県の職業訓練校(BLK)で、インドネシア初となる自動車科の2年コースを、まるごと任されることになった。
任務内容はプロジェクト期間である2年間で、インドネシアにある職業訓練校の自動車課の生徒16名の技術、規律の教育とゆう重要な分野に取り組む事になりました。
県も、労働省も、ディーラーも、愛媛のトヨタ販売店も、JICAも見ている。失敗すれば、自分だけの問題では済まない。周りに、相談できる日本人は誰もいない。逃げ出したくなるような緊張の中で、それでも私は、自分を奮い立たせた。
そうゆうプレッシャーもありとてもやりがいの仕事だと感じています。
2年後、知識も、技術も、規律も兼ね備えた整備士を、この手で育てる。願えば夢は、少しずつでも叶う。4年前のあの半年が、そう教えてくれていた。
ところが、意気込んで着任した私を待っていたのは、想像をはるかに超えて「荒れた」学校だった。
校内はゴミだらけ。先生も生徒も、好きな場所でタバコを吸い、平気でポイ捨てする。規律を説くはずの先生自身が、ゴミを捨てている。最初に校内を見渡したとき、正直、目の前が暗くなった。ここを、たった2年で変えるなんて、本当にできるのか——。
先生も生徒も好きなところでタバコを吸って、好きなところでポイポイ捨てます。この人達は学校をごみ箱と勘違いしているのだろうか?と思う程です。
大人たちの染みついた意識を変えるのは、おそらく無理だ。でも、自分が預かる生徒たちなら。私は、壮大な改革ではなく、地味で、ちっぽけな一歩から始めることにした。毎朝の朝礼のあと、生徒も、先生も、従業員も、全員で5分間の掃除をする。それだけだ。
先生達の意識を変えていくのは難しいが、自分が受け持つ生徒達なら少しずつでも変えていく事ができるはず。時間はかかると思うが少しずつきれいな学校にしていきたいと思う。
地道すぎて、誰にも響かないかもしれない。それでもいい。私は、自分が一番に、率先してゴミを拾い続けた。
最初は、誰も本気にしていなかった。やらされている、という空気が、痛いほど伝わってきた。それでも私は、黙ってゴミを拾い続けた。何も言わず、ただ毎朝、続けた。
約1ヶ月たったころ。私は、信じられないものを目にする。
そして、我が自動車課の生徒は登校中にゴミがあれば拾ってゴミを捨てるようにもなりました。ゴミを捨てていた人達がゴミを拾うようになってきているんです。しかも、自主的に。
誰に言われたわけでもなく、生徒が、自分からゴミを拾っている。その小さな光景に、私は不覚にも、胸が熱くなった。私の本当の狙いは、きれいな校舎をつくることではなかったからだ。
ゆうなれば、校内をゴミを拾って綺麗にするとゆうかは、ゴミを捨てないようにする為に実施しているようなもの。
人を変えるのは、号令ではない。理屈でもない。毎朝の、たった5分の積み重ねと、自分が手本を示し続ける背中なのだ。ちっぽけな一歩が、確かに、何かを動かし始めていた。
もちろん、きれいごとばかりではなかった。
ゴミと時間のことは、口を酸っぱくして言い続けていた。なのにある日、生徒全員が、授業に10分遅刻してきた。その瞬間、私の中で、何かが切れた。「今日はもう授業はせん、全員今すぐ帰れ」——そう言い捨てて、私は自分から教室を出た。
帰り道、激しい後悔が押し寄せた。大人げなかったか。突き放しすぎたか。せっかく少しずつ築きかけた信頼を、自分の手で壊してしまったのではないか——。一晩中、落ち着かなかった。
ところが、その夜、生徒たちから次々と謝罪の連絡が入った。やがて何人かは、私のいるカフェまで会いに来て、まっすぐ目を見て言った。「あの後、みんなでミーティングをしました。もう遅れません」。その必死な顔を見て、私の胸は、じんと熱くなった。
ちょっと、やり過ぎたかな?っと思ったけど、あのまま授業を続けていたら結局何も伝わらないと思ったんで、自分なりに一番生徒に伝わる選択をした
この一件が、私の教育の信条になった。中途半端にごまかさず、本気でぶつかること。嫌われるのを、傷つくのを、恐れないこと。
こちらが本気で生徒にぶつかると、生徒も本気でついてくれる。本気とゆうのがとても大切だ
1学期が終わるころ、私は教える側として、生徒以上に、多くのことを学んでいた。
大きく叱ったのは、2回。けれど、その叱り方が本当に正しかったのか、いまも自信はない。文化も、言葉も違うこの国で、自分の「正しさ」を振りかざすだけでは、何ひとつ伝わらない。それを、痛いほど思い知った。
指導の仕方とゆう事に関しては、正解はないのではないかと思います。
そして、生涯忘れられない出来事も起きた。安全対策を怠ったために、生徒が、指を負傷する事故が起きてしまったのだ。私は、自分の甘さを、心の底から悔いた。技術を教える前に、守るべき命があった。もしあの子の指がなくなっていたら——想像するだけで、血の気が引いた。二度と起こすまいと、固く誓った。
償いのように、私は生徒一人ひとりと、20分ずつ、向き合うことにした。
あなたの夢はなんですか?あなたの目標はなんですか?なぜそうなりたいのですか?私もあなたの夢が叶うように応援しますので一緒に頑張りましょう。
一人ひとりの夢に、本気で耳を傾けた。すると、変わったのは生徒だけではなかった。現地のインストラクターたちまでが、自分から動き始めたのだ。あの荒れ果てた学校は、確かに、少しずつ、変わり始めていた。
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JICA派遣でバンタエンのBLK(職業訓練校)に着任。インドネシア初の自動車科2年コース設立という注目プロジェクトを担い、ゴミだらけ・遅刻常態の学校で毎朝5分清掃を始め、生徒が少しずつ自主的に変わり始める。
4年振りにJICA長期専門家としてインドネシアに再赴任。職業訓練校で国内初の自動車科2年コースを担当し、技術と規律を備えた整備士16名を育てる任務に挑む決意を表明する。
職業訓練校で遅刻した生徒全員に本気で激怒し授業を中止。夜に生徒が謝罪に集まり、以降全員が時間を守るように。本気でぶつかれば本気で返ってくるという教育信条を描く。
自動車科1学期を終え、安全対策を怠り生徒が指を負傷した事故を深く反省。一人20分の個人面談で生徒の夢を聞き、現地インストラクターも自主性を持ち始めるなど指導の手応えと葛藤を率直に綴る。
社会貢献に生きる実業家ブッディ氏との出会い。そして家族同然だった「インドネシアのお母さん」との別れ。
人生を変える出会いは、突然のスコールがくれた。
学校の資材を買いに街へ出た、ある夕方のことだった。買い物を終えた途端、バケツをひっくり返したような雨に降られ、私は帰る足を失った。一番おしゃれなコーヒーショップに逃げ込んだものの、広い店内に、客は私ひとり。手持ち無沙汰に雨音を聞いていると、変わった傘を持った大柄な男が入ってきて——なぜか、がらんとした店内で、わざわざ私の真向かいに腰を下ろした。
ぎこちない会話の末、その男は言った。「学校まで送りましょうか」。さらには「家に寄っていきますか」と。初対面の相手だ。正直、警戒する気持ちもあった。それでも私は、なぜか、彼についていった。連れていかれたのは、屋上に展望ルームまである、4階建ての豪邸だった。
男の名はブッディさん。バイク部品の事業で成功し、貧しい子どもたちのための活動でも知られる人物だった。同行した生徒が「ずっと会いたかった」と興奮するほど、地元では有名な人らしい。そのブッディさんが、私に語ったのは、ありふれた、けれど、ずしりと重い言葉だった。
ビジネスでの成功の秘訣は行動する事、行動する事でたくさん失敗する、その失敗から学んで次はどうすれば失敗しないかを考えればいい。やはり行動しないと次に進む事ができない。
頭ではわかっていたはずの言葉だった。なのに、彼の口から出ると、初めて聞いたように、胸に突き刺さった。なぜだろう、と考えて、私は気づいた。言葉そのものではなく、それを体現して生きている人間の、重みが、私を打ったのだ。往復1時間の道のりを、彼は笑顔で、学校まで送り届けてくれた。
こんな広い心を持った人になりたいと思った
ブッディさんからもらった「行動」の火を、私は自分の活動で燃やしていった。
ずっとやりたかったのは、地域住民を巻き込んだ清掃活動だった。けれど、村長は人付き合いが苦手で、学校の行事にも反対が多いと聞いていた。会う前から、私は身構えていた。それでも——会わずに決めつけるのは、ブッディさんの「行動」に反する。私は自分から、村長に会いに行った。実際に話してみると、村長は、拍子抜けするほど協力的だった。会ってみなければ、何もわからない。それもまた、行動が教えてくれたことだった。
ここに1年以上いて感じる事は、掃除をする人を増やすのではなく、ゴミを捨てない人を増やしたい
私なりの「社会貢献」とは何か。毎晩、海岸をジョギングしながら、生徒たちの未来を考え、私は問い続けた。そして、考え抜いた末にたどり着いた答えは、整備士を志した、あの原点と、まっすぐつながっていた。
私が思う社会貢献とは/自分の活動を通じて、心からありがとうって言って頂ける事だと思います
そして私は、生徒一人ひとりに、まっすぐ問いかけ続けた。
あなたの一番でっかい夢はなんですか?
「校長先生になりたい」と語った女子生徒の目は、本気だった。だから私も、本気で約束した。本気で目指すなら、全力で応援する、と。話を、ただ聞くこと。それだけのことが、どれほど人を動かすかを、私はこの国で教わった。育てているつもりで、いちばん育てられていたのは、私自身だったのかもしれない。
だから、きちんと話しを聞くって事はとても大事なのだと思いました。
けれど、出会いの数だけ、別れもある。それも、覚悟する間もなく訪れる別れが。
一昨日、私が「インドネシアのお母さん」と慕っていた人が、亡くなった。5年前、初めてマカッサルに来たとき、隣の部屋に住んでいた人だ。言葉も話せず、心細さでいっぱいだった私に、彼女はインドネシア語を、一から教えてくれた。断食の時期には、夜明け前3時の食事に、私を呼んでくれた。ベチャに二人ぎゅうぎゅうに詰め込まれて、市場へ買い物に行った。——血のつながりなど、関係なかった。彼女は、紛れもなく、私のもうひとりの母だった。
5年前にお別れする時には、お互いに涙を流しながらまたいつか会おうね!って言って別れました
その約束どおり、昨年戻ったときには、久々に会った親子のように、迎えてくれた。だから、まだ大丈夫だと思っていた。2、3週間前、膝を悪くして入院したと聞いて、見舞いに行った。「退院したら、また来るね」——そう言って別れたのが、最後になるなんて、思いもしなかった。
自宅で転倒し、頭を強く打って、脳を損傷。ICUで意識を失い、翌朝、64年の生涯を閉じた。あまりにも、突然だった。
埋葬には、間に合わなかった。墓前に立ったとき、あの市場の雑踏も、夜明け前の食卓も、5年前の別れの涙も、いちどきに溢れてきて——
涙が止まりませんでした
人は、こんなにあっけなく、いなくなってしまう。私はそのとき、ひとつの問いを、生涯の宿題として受け取った。
その限りある命をどのように使うのか、誰の為に使うのか
そして、墓石に向かって、何度も、何度も、心の中で繰り返した。あなたに、まだ何も返せていないのに。あんなに、もらってばかりだったのに。
今まで実の子供のように接してくれて、本当にありがとうございます
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雨宿り中の偶然の出会いから、貧しい子供支援で有名な実業家ブッディ氏の豪邸に招かれる。「行動して失敗から学べ」という言葉と広い心に触れ、こんな人間になりたいと刻む。
初渡航時から慕っていた「インドネシアのお母さん」の急逝を悼む。言葉を教え家族同然に迎えてくれた思い出を振り返り、命の儚さと、限りある時間を誰のために使うかを問う。
村長を直接訪ね、地域住民を巻き込む清掃活動を実現へ。「整備を通じてありがとうと言われたかった」整備士志望の原点を語り、社会貢献の定義を自分の言葉で示す。
研修から戻った生徒の変化を見て、人の心は環境で揺らぐと実感。「一番でっかい夢は何か」を全員と個人面談し、校長を目指す女子生徒を全力で応援すると約束。傾聴の大切さを語る。
生徒たちを日本へ。愛媛のトヨタ販売店での研修、そして全員のトヨタ就職。2年間のプロジェクトが結実する。
プロジェクトを始めたとき、私には、誇れるものが、何ひとつなかった。
学校運営の経験もない。言葉も、まだおぼつかない。あるのは、根拠のない、大きすぎる目標だけだった。
この学校をインドネシアの職業訓練校で一番綺麗で、生徒達も一番真面目に勉強をして、そして自動車専門科目について一番詳しく学べる学校にしたい。
口に出すたびに、自分でも笑ってしまいそうだった。何様だ、と。経験も実績もない男が、何を大それたことを、と。けれど、いま振り返れば——
今思うと、その根拠もない目標が良かったのかも知れません。
身の丈に合わない夢を、本気で掲げたからこそ、私も、生徒も、そこまで手を伸ばそうと、必死にあがけたのだ。低い目標では、人はそこまでしか伸びない。
2年間のプロジェクトには、愛媛のトヨタ販売店での1ヶ月研修という、またとない計画があった。けれど、全員は連れて行けない。誰を選ぶか——私にとって、これほど胸の痛む決断は、なかった。自動車の試験だけでなく、ソフトスキルも、面接も含めて、私は4名を選んだ。選ばれなかった生徒の、悔しさをこらえる顔を思うと、夜も眠れなかった。
選ばれた4名は、11月1日、日本の地を踏んだ。
インドネシアの田舎からやって来た生徒のほとんどが飛行機に乗る事も初めてで、しかも初めての飛行機が日本行きなので、みんな本当に嬉しそうでした。
生まれて初めての飛行機が、日本行き。空港ではしゃぐ彼らを見て、私は、選ばれなかった生徒たちの分まで、絶対にこの1ヶ月を実りあるものにしようと、心に誓った。日本に着いた彼らは、目を丸くして、私に尋ねた。
「日本人はなぜこんなに歩くのが早いのか?」「街にゴミが一つも落ちていない」
その素朴な驚きが、たまらなく愛おしかった。あの、ゴミだらけの校庭から始まった子たちが、いま、ゴミひとつ落ちていない国に立っている。けれど、私が本当に見据えていたのは、もっと先——自分がいなくなった、あとの学校だった。
このプロジェクトが終了して、日本に帰った時に、残されたインストラクターだけで、どの程度今のレベルを保った状態で継続できるのか。自分達だけの力で改善し続ける事ができれば、本当の意味での成功なのだと思います。
私がいるあいだだけ良い学校では、意味がない。私がいなくなっても、回り続ける仕組みをつくる。それが、本当のゴールだった。
だからこそ、最後の学期、私が選んだ方針は、自分でも勇気のいるものだった。
できるだけ何もしないという考えにたどり着きました。
教えたい。手を出したい。その衝動を、私はぐっとこらえた。最も意欲的なアンディラさんを「改善オーナー」というリーダーに据え、私は、あえて一歩引いて、アドバイザーに退いた。インストラクターたちが、自分たちで衝突し、自分たちで答えを出していく。見ていて、もどかしい。失敗もする。それでも、私は口を出すのを、我慢し続けた。
このプロジェクトの一番の目標はインストラクターの育成です。生徒はインストラクターの鏡だと思います。
立派なインストラクターが育てば、立派な生徒が育つ。怠慢なインストラクターなら、生徒もそうなる。だから私は、嫌われ役を、引き受けた。危険なことや、遅刻には、容赦なく叱った。煙たがられているのは、わかっていた。それでも、よかった。
全ては、BLKバンタエンの将来を考えての事です。厳しく言ってきましたが、結果的には良い方向に進んでいて、みんなからも信頼してもらえているので良かったです。
厳しさの奥にある思いを、彼らは、ちゃんと受け取ってくれていた。それを知ったとき、私の肩から、すっと力が抜けた。
そして、積み重ねてきた信頼が、目に見える「形」になる日が、ついに来た。
生徒たちは、ハジカラトヨタの就職試験に挑んだ。学科、IQ、体力、面接——4つの関門が、待ち受けていた。第一関門の学科試験。結果を聞くまで、私は、生徒以上に落ち着かなかった。
結果は、全員合格でした。しかも、ほとんどの生徒が100点に近い点数だったようで、ハジカラトヨタの人事担当も相当驚いていました。
そして、残るすべての関門を、彼らは突破した。そしてついに——
ハジカラトヨタに全員入社する事が決定しました。全員が目標としていたエンジニアとしてスタートできる事がとても嬉しく思います。
ひとりも、欠けなかった。あの荒れた学校で、ゴミを拾うところから始めた彼らが、全員、夢のスタート地点に立った。整備の技術だけでなく、チームで問題を解決する力まで、身につけて。この2年で、私自身も、自分でも驚くほど、大きなものを得ていた。
大げさかもしれませんが、自分自身が生きていく役割や意味を見つけることができました。
この2年は、まるでひとつの長い冒険だった。仲間を集め、ひとつずつ問題という敵を倒し、経験値を重ねて——ようやく、最初の大きな目標にたどり着いた。そんな感覚だった。
帰国の日。空港には、生徒たちが、見送りに来てくれた。
一人ひとりに「2年間、ありがとうね」と伝えていく。そのつもりだった。けれど、いざ顔を見ると、一緒に悩んだ夜も、アホみたいなことをして腹を抱えて笑った日も、すべてが一瞬にあふれてきて、言葉にならなかった。きっと、また会える。頭ではわかっている。なのに、涙が、止まらない。
でもそれは悲しい別れの涙ではなくて、なにか希望に満ち溢れた涙のように思います。この経験と共に学んだ仲間達は私にとって一生の宝物です。
それは、人生で初めて流した、誇らしい涙だった。
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不良校状態からの学校改革を振り返り、選抜4名の生徒を初来日させ愛媛のトヨタ販売店で研修。プロジェクト終了後も自走できる仕組みづくりを誓う。育成成果が結実する節目の一篇。
「できるだけ何もしない」を方針に、自分が去った後も回る組織へ権限を委譲。嫌われ役を厭わず叱る姿勢を貫く。生徒全員がハジカラトヨタ就職試験の学科に満点近くで合格する朗報も届く。
2年間のJICAプロジェクト最終報告。荒れた学校を問題解決の積み重ねで変え、生徒全員のハジカラトヨタ入社を実現。空港での別れに涙し、生きる役割を見つけ仲間を一生の宝物と綴る集大成。
全国48名の指導者育成という新たな挑戦。インドネシアで受けた恩を、次の世代へ返すために。
約1年ぶりに、私はあの、バンタエンの寮に戻ってきた。
懐かしい匂いがした。ここで2年間、泣いて、笑って、生きてきた。戻ってきた理由は、新しいプロジェクトが、動き出したからだ。「国立職業訓練校自動車整備科インストラクターの養成および評価・育成システム構築プロジェクト」——3年がかりの、国家規模の挑戦である。
しかし、今回は更にバージョンアップして、全国の職業訓練校のインストラクターを指導していくという壮大なプロジェクトになってます。
教える相手が、生徒から「指導者」へと、上がった。つまり、私が育てる相手が、今度は、何百人もの生徒を育てていく。その責任の重さに、武者震いがした。西はスマトラ、東はパプアまで。
西はスマトラ、東はパプアまで/本当に全国各地からのインストラクター48名が、この田舎のバンタエン県に集結しました。
最も忙しく、最も重要とされる、記念すべき第一回。私は迷わず、自分から手を挙げた。楽な道では、決してない。それでも、いちばん大変な場所にこそ、自分がいるべきだと思った。あのどん底で逃げなかった自分が、ここまで連れてきてくれたのだから。
この3年間のプロジェクトでおそらく、一番忙しく、もっとも重要とされる、記念すべき第一回目に自ら手を上げて参加を決めてくれました。
私のやり方は、2年前と、何ひとつ変わらない。教えるより先に、自分が手本を示す。
学校のマネージメントには、インストラクターに掃除させてるの!?とびっくりされましたが、自ら行動をすることは非常に重要なので、汗だくになりながら毎日一緒に掃除をしてます。
指導者に掃除をさせるのか、と驚かれた。けれど、言葉で百回説くより、汗をかいて、背中で見せるほうが、ずっと伝わる。あの荒れた学校で、5分間の掃除から始めて、私が身をもって学んだことだ。
時代は、大きく変わろうとしていた。5Gが始まり、自動車業界も、ITの波で一変する。これからは、リーダーだけでなく、一人ひとりが、自ら考え、自ら動かなければ、生き残れない。だからこそ私は、この1年11ヶ月、ずっと願い続けてきた。自分の頭で考えられる人間に、育ってほしい、と。
なぜ、私はここまで、この国に関わり続けるのか。その答えは、自分がエンジニアになった、あの原点に、あった。
私の場合は、「お客様に感謝される為のツールがエンジニアという職業」だったという事だ。
そしてその思いは、まっすぐ、教育へとつながっていく。
バンタエン職業訓練校で考えてみると、「生徒達が自ら考えて成長する為のツールが自動車整備」という事だったのかもしれない。
実際、生徒たちの問いは、変わっていった。「これはどうなんですか?」から、「私はこう思うのですが、どうですか?」へ。自分の考えを、持つようになったのだ。自分の頭で考え、自分の足で動ける人間が育てば、彼らはきっと、次の世代を引っ張っていく。
自分で考えて行動ができる人間に育てば、これからインドネシアでも時代の流れや、環境の変化が起きた時にもきっとリーダーシップをとって、活躍してくれると信じている。
ここまで歩いてきて、いま、しみじみと思うことがある。私はこの国で、与えてもらってばかりだった。
言葉を教えてくれた、インドネシアのお母さん。行動の大切さを教えてくれた、ブッディさん。一緒に泣き、一緒に笑い、夢を叶えていった、生徒たち。そして、停電で真っ暗になった夜に気づいた、「伝える手段は、言葉だけではない」という、大切なこと。彼らがいなければ、いまの私は、いない。
そんな、日本からはるか離れたインドネシアで、人間社会で生きていく為にとても大事な事を学ばせて頂いた。
受けた恩は、くれた人へは、返しきれない。母にも、インドネシアのお母さんにも、もう、直接は返せない。だからせめて、その恩を、次の世代へと送っていく。48名の指導者を育てることは、その、確かな第一歩だ。これが、私の生きる意味になった——恩送り。
借金まみれで、回り道だらけだった、あの20代の自分。底まで落ちた、あの静かな夜の自分には、想像もできなかった景色が、いま、目の前に広がっている。
問題(壁)を超えた先に、どんな景色が待っているのか??/とても楽しみです!!
私の物語は、まだ途中だ。受け取った恩を、次へ、その次へと送りながら——私はこれからも、楽しみながら、走り続けていく。
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全国の職業訓練校インストラクター養成という壮大な新JICAプロジェクトの始動を報告。スマトラからパプアまで48名が集結し、愛媛のスーパーエンジニア2名と共にソフトスキル等を指導する。
任期終盤、自動車業界のIT変革を見据え自ら考え行動する人材育成の意義を語る。「お客様に感謝されるツールがエンジニア」という原点を再確認し、伝える手段は言葉以上のものがあると総括する。
JICA派遣でバンタエンのBLK(職業訓練校)に着任。インドネシア初の自動車科2年コース設立という注目プロジェクトを担い、ゴミだらけ・遅刻常態の学校で毎朝5分清掃を始め、生徒が少しずつ自主的に変わり始める。
4年振りにJICA長期専門家としてインドネシアに再赴任。職業訓練校で国内初の自動車科2年コースを担当し、技術と規律を備えた整備士16名を育てる任務に挑む決意を表明する。
雨宿り中の偶然の出会いから、貧しい子供支援で有名な実業家ブッディ氏の豪邸に招かれる。「行動して失敗から学べ」という言葉と広い心に触れ、こんな人間になりたいと刻む。
初渡航時から慕っていた「インドネシアのお母さん」の急逝を悼む。言葉を教え家族同然に迎えてくれた思い出を振り返り、命の儚さと、限りある時間を誰のために使うかを問う。
借金300万円を抱えた下積み、数ヶ月の無給労働、タイでの武者修行など、回り道だらけの過去を赤裸々に告白。「サービスを極めよ」という役員の助言と1級取得が転機となり、インドネシア派遣へつながった半生記。
2年間のJICAプロジェクト最終報告。荒れた学校を問題解決の積み重ねで変え、生徒全員のハジカラトヨタ入社を実現。空港での別れに涙し、生きる役割を見つけ仲間を一生の宝物と綴る集大成。
この物語の続きは、いま事業になっています。
日本とインドネシアの信頼の架け橋として、外国人材支援・多文化共生・人材育成に取り組んでいます。